昭和55年11月12日 朝の御理解



 御理解 第89節
 「此方の道は傘一本で開くことができる。」

  おかげが頂けると確信する事。おかげが頂けるその確信という事が、そのままおかげに繋がるのです。お願いしてあるからどうとかなろうと、いったようなものじゃない確信です。これは私の修行中の時分に、これだけはおかげが頂けると確信させて頂いた事は、親教会の御大祭のまぁ御用ですね。御祭典費、それからお供えね、もうこれだけはどういう難儀な中にあっても、おかげが頂けると確信致しました。致しておりました。もう間違いなくおかげ頂いて来たですね。
 御本部参拝の旅費はもうどんなにお金が無い時でも、おかげが頂けると確信致しました。もう御本部参拝の出発のもう間際まで、お金が出来ない。或る時は妹がもう私は御本部参拝する為に、けれども旅費はまだ申し込んでありません。けれども主人の形見にしておったものを売ってから、持って来てくれた事がございました。或る時はいつも話します、正義先生のお姉さんであります、今小郡に居られますが、久富しげるさん。お参りするはずで旅費は申し込んであったんですけれども、急にお参りが出来なくなって。
 まぁ「お金を納めとりますから、私の代わりに参って下さい」というて、もうあのう間際にお参りが出来なくなって、教会に見えられてそしてお参りが出来た事もありました。もう本当に御本部参拝だけはもう絶対のものでした。親教会の御大祭の時のお供えと、それから祭典費をまぁお供えさせて頂いておりましたから、もうこれだけは間違いなく、もう神様はおかげ下さいました。いわゆる確信がおかげを生んどったんですね。無い事はもう神様も御承知じゃから、今度の御本部参拝は御無礼せじゃこて。
 今度の御大祭にゃねお供えも出けんのだけども、まぁ何にもお供えする物がないのだから神様が御承知だから。これはねそのう絶対。私が絶対絶対という言葉を使うから、いろいろ批判がありますですね。親先生なんかも特に「あんたは絶対ちいうちから、絶対てんなんてん言葉は使うちゃならん」というてそのうお叱りを頂きょった時代がありました。絶対おかげ頂くといったような表現をしますから。けれどもこの事に限っては絶対、まぁ信者としてのまぁ最後の御大祭だったでしょうね。
 祭典費はお供えしてあったですけれども、お供えが今度の御大祭には何んにも出けてない。私は福岡に居りました。家内は子供を連れて椛目の方に帰って居りました。前日手紙が来ておりました。こちらでまぁ遅配欠配というあの時代ですからね、「少しでもよいからメリケン粉でも何でもいい、芋でもいいからそちらの配給の物を、少し頂けたら頂いて今度大祭に帰ってみえる時に、持って帰って下さい」という手紙が来ておった。
  親子でもやはりやはり遅配欠配といったような時ですから、食べ物を持って行かねば、まぁ親戚にも行けないといったような時分ですよ。神様へお願いさせて頂いて、まぁあの時分のメリケン粉といゃ真っ黒のメリケン粉でしたね。それをややいっぱい、一俵ちょっと足らん位のが、まぁ無理算段して配給を取る事が出来ましたので、それを持って帰って大祭の準備に帰らせて頂いておりました。
 まだ西鉄の乗車口といってもあんな立派なもんじゃなくて、假のまぁあの乗車口がある時分でしたが、沢山ずうっと並んでそのう順番で電車に乗るんですね。それで待たして頂いて足下にそのメリケン粉が置いてあるんです。そこで私待っておる間に考えて「まぁこりゃいつの場合でも御大祭にお供えが出来なぁ、お供えを持たんで帰れるなぁ、帰らなきゃならないなぁと思わせて頂いたら、と思わせて頂いたら足下にあるそのメリケン粉を、こうやって指さして下さるんです御心眼に。
 いうならば『そこにあるじゃないか』と、はいこりゃあもう家内が先日手紙をよこしましてから、もうあのうまぁ子供や家内達の食料に当てなきゃならんものですからと、という気持ちで居りましたら、神様が『そこにあるじゃないか』と頂いた途端に、あぁそうじゃったとこう思いました。それで今度の御大祭のお供えはこれにしようと決めたら、又御心眼に『鶏ですね雌鳥の周囲にひよこがこう何匹も居ります。それは雌鳥がこう羽根の中にこう自分の首をこう突っ込んで。
 まぁいうなら思案投げ首という形なんです。そしたら周囲に居ったヒヨコがばたばたと倒れていくところ』を頂くんです。家内が首を長うしてこれを待っておるね。もしこれをならお供えして持って帰らなかったらね、それこそヒヨコが餌がつれをするようにばたばた倒れて行くような事があってもよいかと、いわんばかりの御心眼でした。そん時にはぁ今度の御大祭にはこれだと、心に決めておりましたから、もう神様ね家内子供の事はもうあなたにお願いしますと、いわゆるおまかせ致します。
 こりゃもう私の絶対のシンである。御大祭にお供えをさせて頂くという事は、私のシンでもあるし気がつかないならいざ知らず、今こうしてお気付を頂いて、そこにあるじゃないかというお気付を頂いた時に、私の腹は決まりました。家内子供の事は神様どうぞよろしくというお願いしますという腹なんです。そうしましたら私の心眼が、『広ぉい目の前が湖になった。そしてその湖に小さい水鳥がそれこそ餌を求めておるらしいですけれども、餌がないのでさんさんごごこう散らばって行く。
 その後の方からもうそれこそその、鳥の十倍もあろうかと思われるような大きな水鳥が、口にこう魚か何か餌をくわえてもう矢を射るような勢いで、こう散っていく小さい水鳥の方まぁへ泳いでいくというですかね、走って猛スピードでこのう走って行く所をお酔いで行く所を』を御心眼に頂いた事がございましたが、おかげで無事に御大祭にもお供えが出来ました。そして福岡の方へ帰らして頂きましたら、家の前に自転車が止まっとりますもん。家に誰も居らんもんですからそこに待っておられた。
 ちょうど帰りましたから、そしたら中国の方で私が前商売をしておる時に、或るお商売のお世話をしておりました、その方がお礼にというて、もうそれこそあの進駐軍が頂かれるメリケン粉ですから真っ白な、あのう光るようなメリケン粉でした。それを一俵お礼に持って来て頂いておるところでしたね。そういう様々な体験がございますが、もうこと神様が喜んで下さる事ね。例えば総代じゃない大祭それに対して、いうなら春秋の大祭にね、せめてお供えの一つでも御祭典費一つでも、お供えさせてもらわねば。
 こりゃあもう当然の事だと。だからそういう思いは神様が喜んで下さる。大祭に使うお金をこれこれと決めたら決めたが最後、もうこれだけは絶対おかげを頂きました。御本部参拝と大祭の時のお供えね、もうぎりぎりの時は今お話するような所を通らして頂きましたけれども、いよいよもって私の心の中に生まれてきたものは、確信でした。そして次に思いました。ははぁ神様に喜んで頂くという事ならば、このようにおかげ下さるんだと。なら私の心全体がいう事する事なす事が。
 心に思う事が神様の気感に通う思い方が、なし方が出来るならば、おかげになると確信する事になって参りましたね。御大祭の時御本部参拝という時だけの事ではないのだ。神様に喜んで頂くような私になりさえすればね、必ずおかげが受けられるという確信ね。その頃からやっぱ人が助かり始めました。私だけの助かりじゃなくて人が助かる。傘一本で開ける道というのは、いつもここでは安心という。いうなら安心という事は、私は確信に繋がると思うです。
 おかげになるどうかなる、どうか神様がして下さるだろうと任せる心だけではありません。確信です。おかげになるとね、おかげになるという確信はそのまま安心でしょうがねその安心の心ひとつで人が助かるようになって来たんです。ですから私共の心の中心ひとつで総べてを創るといわれますけれども、その心ひとつが素晴らしい神様の気感に適う、お喜び頂けるような心の使い方が出けるようになるからね、確信が生まれてくるんです。安心が頂けるようになるのです。だから事実それがおかげに繋がるんです。
 『神様は信ずる者を信ずる』と仰せられますね。確信という事は、神様を信じて疑わないという事です。だからここのところを出けんから神様が何とかして下さるだろうとか、出けん事は神様も知っておいでだから、といったようなものではない事ですね、合楽の信心は。貫く事ですやはり。そこでお互いのなら、合楽理念の実験実証という事がいわれますが。昨日は筑豊支部の御大祭でした。本当にお話を聞けば聞くほど、支部長の安藤さんのお話でしたが。
 こんな垢抜けしたこういう御直会例えばひとつでも、本当に思いがけない人が思いがけないおかげを頂いて、このおかげを頂きましたと、思いがけない働きというものが起こってくる。支部の方達が相寄り相集まって、年に一回のお礼のお祭りをさせて頂く。皆んなが心を真心をそこに結集してすれば、こういうお祭りが仕えられるという確信が、段々出来て来るんです。そしてそこにはそれこそ相談もしなかった、思いもかけなかったおかげがそこには頂けるんです。
 神様がこれを喜んで下さる事が分かりますし、神様が喜んで下さる事には、どんなに打ち込んでもよいという事が、段々分かっていくに従って、支部大祭も立派な御大祭が出けるように、いわゆるその確立がなされて来る訳です。もう無い事は分かっとるからと、神様も御承知だからといった様なものではなくて、これこれはどうでもという様な、いわゆる神様が喜んで下さる事ならば、そこに打ち込む。
 なら自分の心の上にもこの心だけは堅持したい、この修行だけは貫きたい、又貫かせてもらはねばならんという。なら様々な合楽理念、助かりの理念がありますけれども、これだけは行じております。ここの久保山さんじゃないですけれども、もう「日々今日もどうぞ成り行きを大切に尊ばせて下さい。もうこれだけは出けませんけれども、ほかん事は出けんけれども、これだけは実験実証頂きつつございます。」
 というのが久保山さんのげんです。例えばですなら黙って治めるといったような修行がです、本気でそれに徹しられたら、そっからそれに連なって生まれてくるのが、実証ですから。なるほど黙って治めるという事の素晴らしい事、絶対のおかげになると確信が生まれて来るんです。だからね又失敗しました、又失敗しましたが続いとったんでは、いつまで経っても傘一本が頂かれんです。
 これだけは徹底させて頂いておりますという生き方。合楽理念の中にいわれる。この御教えだけは私のものに、血に肉になったという様な修行をさして、中にはねもう、今日はもういよいよ失敗するかと思われるような、私が最後の親教会の御大祭に奉仕する心というものが、一番最後のあのうメリケン粉のお供えの時にね、まぁ危うく失敗しようとした所を、神様のおかげでそれを守り続ける事が出けた。
 そこから私は神様が喜んで下さる事を思い行うならばね、おかげになるという確信が生まれてくるという事を。だから御大祭とか御本部参拝だけの事じゃない、他の事一切がいうなら人間の幸せの条件の全てがです、私の心次第で頂けるという確信が生まれてきましたから、もう本気で改まる事にも、一生懸命にならせて頂きましたね。おかげでいうならば今日の合楽がありますね。だからこれだけはといった様な確信に繋がるしかもその確信は傘一本。いうなら安心に繋がるような修行をさせて頂きたいと思います。
   どうぞ。